32−H27年(ワ)第76号 傍聴受付手続拒否−損害賠償請求 提訴2015.8.25 原告:1名 被告:今治市 |
|
訴えの要旨 今治市教育委員会は、2014年8月29日に開催された教育委員会会議(小学校用教科書採択審議)の傍聴受付手続きを、「傍聴受付時間を終了している」との理由で、@傍聴席が6席残っており、A会議も始まっていないにもかかわらず、拒否し、傍聴させなかった。 訴えの目的 「傍聴の自由」の確立 1,憲法などが規定する「会議の公開原則」 憲法第57条において、「両議院の会議は、公開とする」と規定し、地方自治法第115条において、「普通地方公共団体の議会の会議は、これを公開する」と規定している。 教育委員会の会議も、地方教育行政の組織及び運営に関する法律第14条7項において、「教育委員会の会議は、公開する」と定めている。 これに基づき、今治市教育委員会会議規則第11条で「会議は、公開する」と定めている。 このように各会議は、公開を原則とする。 2,会議の「公開原則」と「傍聴の自由」 A「報道機関が新聞やテレビなどを通して会議の内容を」「広く一般に知らせる」ことを 意味する 「報道の自由」。 B「会議の記録」を公表することを意味する「会議禄の公開」。 3,「傍聴の自由」は、「表現の自由(知る権利)」(憲法21条)の基礎 @「傍聴の自由」は、情報を直接入手するために不可欠な行為で、「知る権利」(憲法21条)を基礎をなし、住民(主権者)自らが政治に参加するために不可欠の前提をなす権利である「表現の自由」(憲法21条)のなす。 A「傍聴の自由」は、行政や議会が公平かつ公正に行われているか否かの監視に不可欠な行為である。 しかしながら、「傍聴の自由」は、会議の会場の広さを理由に傍聴席数を制限したり、傍聴受付時刻や諸事前手続きを求めるなどの様々な制限があり、実体的「傍聴の自由」は、制限されている。 今治市教育委員会では、教育委員会会議の日時・場所の周知を、会議の1週間程度前に、教育委員会のホームページに掲載するだけであり、実体的な会議の公開とはいえない状況にある。 4, 憲法21条1項から再構成される住民の「知る権利」 伊藤正己(東京大学教授・最高裁判事)は、『憲法(新版)』(弘文堂)の「言論・出版の自由」のなかで、「知る権利」及び「アクセス権」について、次のように述べている。 言論の自由の内容として知る自由も含まれていることは既に指摘した。人が自己の意思・意見を形成するためには、情報を自由に獲得できるようになっていなければならず、これを公権力が妨げてはならないという消極的側面についてはこれまで説いてきたところで理解できる。ところが、今日では、多量の情報の収集・管理・操作が政府やマス・メディアといった限られたところに集中されており、個人が自由に情報を得たり伝達することができない状態となっている。そこで、情報収集等の権利を積極的に構成すべきであるという考えが登場するようになった。すなわちそれは、情報を確保する主体に対し、情報の開示ないし提供を請求することのできる権利としての性格を与えようとするものである。これが狭義の知る権利と称されるものであり、言論活動にかかわることであるから憲法21条に基礎づけられるのである。また、情報の存する所へ接近しそれを得たり、情報提供の場を利用するという側面からアスセス権と称される権利が知る権利とともにとなえられる。(317頁) 芦部信喜著『憲法 第三版』(2002年:岩波書店。補訂者高橋和之:東京大学教授)の「一 表現の自由の意味」で、「知る権利など」を次のように解説している。 2 表現の自由と知る権利 (一) 送り手の自由から受けての自由へ 表現の自由は、思想・情報を発表し伝達する自由であるが、情報化の進んだ現代社会では、その観念を「知る権利」という観点を加味して再構成しなければならない。 表現の自由は、情報をコミュニケイトする自由であるから、本来、「受け手」の存在を前提にしており、知る権利を保障する意味も含まれているが、19世紀の市民社会においては、受け手の自由をとくに問題にする必要はなかった。ところが、20世紀になると、社会的に大きな影響力をもつマス・メディアが発達し、それらのメディアから大量の情報が一方的に流され、情報の「送り手」であるマス・メディアと情報の「受け手」である一般国民との分離が顕著になった。しかも、情報が社会生活においてもつ意義も、飛躍的に増大した。そこで、表現の自由を一般国民の側から再構成し、表現の受け手の自由(聞く自由、読む自由、視る自由)を保障するためそれを「知る権利」と捉えることが必要になってきた。表現の自由は、世界人権宣言19条に述べられているように、「干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由」と「情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む」ものと介されるようになったのである。 (二) 知る権利の法的性格 知る権利は、「国家からの自由」という伝統的な自由権であるが、それにとどまらず、参政権(国家への自由)的な役割を演ずる。個人はさまざまな事実や意見を知ることによって、はじめて政治に有効に参加することができるからである。 さらに、知る権利は、積極的に政府情報等の公開を請求することのできる権利であり、その意味で、国家の施策を求める国務請求権ないし社会権(国家による自由)としての性格をも有する点に、最も大きな特徴がある。・・・・以下略。 3 アクセス権 知る権利と関連して、マス・メディアに対するアクセス権が主張されることがある。アクセス権とは近づく(接近する)権利ということで、種々の場合に用いられる。・・・・・政府情報へのアクセス権とは政府情報の公開請求権を意味する。・・・・・以下略。(163〜164頁) 以上のように、「知る権利」及び「アクセス権」(以下「知る権利」という。)は、憲法21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」の言論の自由及び表現の自由が再構成され、「権利」として保障されるに至っている。 5,表現の自由の価値と「情報収集の自由・権利」 芦部信喜は、先の『憲法 第三版』の「一 表現の自由の意味」で、「1 表現の自由の価値」で次のように述べている。 1 表現の自由の価値 内心における思想や信仰は、外部に表明され、他者に伝達されてはじめて社会的効用を発揮する。その意味で、表現の自由はとりわけ重要な権利である。 表現の自由を支える価値は二つある。一つは、個人が言論活動を通じて自己の人格を発展させるという、個人的な価値(自己実現の価値)である。もう一つは、言論活動によって国民が政治的意思決定に関与するという、民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)である。表現の自由は、個人の人格形成にとっても重要な権利であるが、とりわけ、国民が自ら政治に参加するために不可欠の前提をなす権利である。 また、佐藤幸治(京都大学名誉教授)は、『日本国憲法論』(成文堂 2011年)の「表現の自由」で次のように述べている。 「表現の自由」とは、定義通りに解すれば、人の内心における精神作用を、方法のいかんを問わず、外部に公表する精神活動の自由をいう。(上記248頁) 「表現の自由」は思想・信条・意見の表出活動として語られることがあるが、厳密には、「報道の自由」も「表現の自由」に含まれることは今日では当然視されている。事実の報道と意見などとを区別することは実際問題として難しく、また、政治・社会・経済的事象に関する事実情報の流通は各人の精神活動および立憲民主制の運営にとって不可分であるからである。 このように考えていくと、「表現の自由」は、思想・信条・意見・知識・事実・感情など人の精神活動にかかわる一切のもの(これを包含して「情報」と呼びことにする)の伝達に関する活動の自由と解することができる。そして、情報を伝達する行為は、情報を受けとる行為があってはじめて有意的となるという意味で、「表現の自由」は「情報を受け取る自由」(以下「情報受領権」と呼ぶ)を前提とするといえる。さらに、情報伝達行為は、多かれ少なかれ情報収集活動に依拠するから、「表現の自由」は「情報収集の自由・権利」(以下「情報収集権」と呼ぶ)を包摂するものと解される。 以上のような射程をもつ「表現の自由」は、@個人の人格の形成と展開(個人の自己実現)にとって、また、A立憲民主制の維持・運営(国民の自己統治)にとって、不可欠であって、この不可欠性の故に「表現の自由の優越的地位」が帰結される。確かに、既にみた「思想・良心の自由」や「信教の自由」などの内面的精神活動の自由、あるいは人身の自由や私生活の自由さらには経済活動の自由も、個人の自由な自己実現にとって不可欠なものであって、優劣は簡単にはつけ難いかもしれない。しかし、「表現の自由」は人間の精神活動の自由の実際的・象徴的基盤であるとともに、人の内面的精神活動の自由や人身の自由や私生活の自由などの保障度を国民が不断に監視し、自由の体系を維持する最も基本的な条件であって、その意味で「ほとんどすべての他の形式の自由の母体であり、不可欠の条件である」(カードーゾ裁判官)。(同上、249頁) また、佐藤幸治は、『日本国憲法論』で、「表現の自由」における「情報収集」のその権利性について次のように述べる。 (4)情報収集権 この権利は、自ら情報を獲得しようとする積極的行動にかかわる点で、受領権と性格を異にする。収集権は、@収集活動が公権力によって妨げられないという自由権的側面と、A公権力に対して情報の開示を請求するという請求権的側面とを有する。@を消極的情報収集権(一般に「取材の自由」と呼ばれている)、Aを積極的情報収集権と呼ぶことにする。 消極的情報収集権(取材の自由)は、通説・判例によってほぼ承認されているといってよい。これに対して積極的情報収集権は、請求権的性格を有することから、これを「表現の自由」の内実とすることについてなお消極的意見があるようにみえる。 が、情報の流通という観点からみた場合、積極的情報収集権は欠くことのできない部分をなすこと、この権利は元来立憲民主制に内在するとみるべきものであったこと、積極国家化現象にもなって顕在化せざるをえないものであったこと、「表現の自由」が請求権的側面をもつに至ったとしても、そのことの故に直ちに本来の自由権としての性格が損なわれると速断するのは妥当でないこと、が指摘されなければならない。(251〜252頁) すると、情報公開制度は、「表現の自由」における積極的情報収集権(請求権的性格を有する)となる。 小倉一志(小樽商科大学教授)は、『研究資料 会議公開に関する憲法上の諸問題:地方議会における「委員会」傍聴不許可事件を素材として』(小樽商科大学学術成果コレクション 札幌法学(2008)、19(2):55−77)の「4.知る権利・取材の自由(憲法21条1項)との関係」で、一般的には抽象的権利と解される知る権利が具体的権利として機能する抽象的権利説を次のように述べている。 (1) 知る権利との関係 憲法21条1項は「情報(個人の精神活動にかかわる一切のもの)」を外部に対して発表(伝達)する自由のみならず、その「情報」の受領および提供請求の権利を含むと解するのが現在の通説的理解であるが、知る権利は後者の部分、すなわち「受領および提供請求の権利」の部分を指す。知る権利は、より多くの情報に接することが自己の人格の発展に寄与するという意味での個人的な価値(自己実現の価値)を有するが、それ以上に、国民(住民)が政治的意思決定を的確に行うために情報(とりわけ、政府の情報)が必要であるとする民主政に資する社会的な価値(自己統治の価値)を強く有するところに権利の特徴がある。 法的性質については、情報の「受領」が公権力によって妨げられないという自由権的側面と、「提供」を公権力に対して請求するという請求権的側面があると解されている。前者の自由権的側面に関する判決としては、「憲法21条にいう表現の自由が、言論、出版の自由のみならず、知る自由をも含むことについては恐らく異論がないであろう。」「けだし、表現の自由は他者への伝達を前提とするのであって、読み、聴きそして見る自由を抜きにした表現の自由は無意味となるからである。情報及び思想を求め、これを入手する自由は、出版、頒布等の自由と表裏一体、相互補完の関係にあると考えなければならない」とする「悪徳の栄え」事件最高裁判決・色川光太郎裁判官反対意見に引き続き、前掲・「よど号」ハイジャック新聞記事抹消事件最高裁判決も「およそ各人が、自由に、さまざまな意見、知識、情報に接し、これを摂取する機会をもつことは、その者が個人として自己の思想及び人格を形成・発展させ、社会生活の中にこれを反映させていくうえにおいて欠くことのできないものであり、また、民主主義社会における思想及び情報の自由な伝達、交流の確保という基本的原理を真に実効あるものたらしめるためにも、必要」とする。また、前掲・博多駅テレビフイルム提出命令事件最高裁決定、外務省秘密電文漏洩事件(西山記者事件)最高裁決定などにおいて取材の自由を補強する根拠としての「(国民の)知る権利」が使われているが、いずれも具体的権利であると解されている(学説も同様)。これに対して、後者の請求権的側面については、「情報開示という作為を求めるものである」ことや、三権分立における裁判所の役割を考慮に入れると、「公開の対象、公開・非公開の基準の設定、公開手続等々について法律による具体的裏付けが必要」であるという意味で抽象的権利にとどまると一般的には解されている。この点に関する判例としては、鴨川ダムサイト情報公開訴訟京都地裁判決が「各人が自由に様々な意見、知識、情報に接し、これを摂取する自由」、いわゆる知る権利ないし情報アクセス権は「抽象的な権利に過ぎないから、法令による開示基準と開示請求権の具体的内容、方法、手続の制定を待って初めて具体的な情報の開示を請求することができる権利となる」としたものがある。(65〜68頁) 以上のように、佐藤幸治と小倉一志は、公権力に対して情報の開示を請求するという請求権的側面(積極的情報収集権:抽象的権利)は、法律による具体的裏づけがあれば、収集活動が公権力によって妨げられないという自由権的側面(消極的情報収集権:一般に「取材の自由」)と同様に具体的権利となると述べている。 例えば、教育委員会会議とは、地方教育行政の組織及び運営に関する重要事項を審議し、議決する場である。その会議を傍聴するという行為とは、教育行政の重要事項の審議・議決内容に住民が、他の者を介さずに直接接する(アスセスする)唯一の手段である。したがって、住民が、その会議の「傍聴の自由」は、「表現の自由」の基礎をなす「情報収集権」における具体的な権利であるといえる。 6,議会制と表現の自由 佐藤幸治(京都大学名誉教授)は、『議会制と表現の自由』(ジュリスト(No, 955) 1990.5.15) で次のように述べている。 ・・・「議会制」と「表現の自由」との関係は広汎かつ多面的である。「表現の自由」をもって、情報の収集−情報の提供(伝播)−情報の受領という全般的な情報流通の観点から捉えるならば、なおさらのことである。 近代議会制を支える重要な原理として、よく「代表の原理」と「審議の原理」とがあげられる。「代表の原理」と「表現の自由」との関係についても論ずべきところが少なくないが、「表現の自由」がより直接的にかかわってくるのは「審議の原理」である。いうまでもなく、「審議の原理」は、議会の決定の妥当性に客観性をもたせる上で、議会の構成員(議員)による自由な討議をつくすことが肝要であるとする原理である。この「審議の原理」は、議事(会議)公開の原則と結びついている。議事(会議)公開の原則快選挙民に選挙に際しての判断資料を提供し、国民の「知る権利」に応え、国民と議会とを結びつけるという権能を果たすとともに、議会の決定の妥当性を側面から担保するという機能を有する。近代議会制が依拠する多数決の原則は、かかる「審議の原理」、議事公開の原則を背景においてはじめて有意的となる。議事公開の原則を定める日本国憲法五七条は、この関係においてきわめて重要な意義を担う規定であるということができる。 議会における公開の自由な討議を通じて、国民に国政に関する問題の所在を知らしめ、それをめぐって国民の様々な表現活動を誘発し世論の形成を促し、そうした様々な表現活動ないし世論が即時的にあるいは選挙における代表者の変更等を通じて議会の活動に反映される。国民主権は「正当性の原理」とともに「実定憲法上の構成的原理」としての側面ももち、後者の原理中には「公開討論の場の確保の要請」が含まれているというのが筆者の見解であるが、議会は右のような意味においてまさに「公開討論の場」の中心にあることが期待されているということができる。日本国憲法が国会をもって「国の唯一の立法機関」とするとともに「国権の最高機関」とするのは、こうした趣旨を明らかにする意味もあると解される。 こうした「議会制」と「表現の自治」とのかかおりを考察の便宜上区分すれば、@議会における討論の自白、A議会における討論と議会外の表現活動とをとり結ぶ局面としての議事公開制、B議会活動に関連しての議会外での表現、に大別することができる。 「傍聴の自由」は、「表現の自由」との関係のみならず、日本国憲法が採用している「半直接制」における「国民主権」原理から導かれる(下記資料参照)。 裁判資料:『議会制と主権原理』(杉原泰雄 一橋大学教授 憲法学 ジュリスト(No, 955) 1990.5.15) 7,表現の自由の「優越的地位」 『註釈日本国憲法 上巻』(樋口陽一共著:青林書院新社1984初版)には、「優越的地位の理論」(419〜421頁)で次のように述べている。 3 優越的地位の理論 表現の自由(あるいは広く精神的自由)は、人権体系の中でも「優越的地位」を占めるとするのが、今日、学説上一般的である。 この「優越的地位」の理論は、アメリカにおいて、1936年以後の連邦最高裁の判例をつうじて確立されてきたものであり、表現の自由(精神的自由)を、他の自由(とりわけ経済的自由)に優越するものとし、したがって、これを制限する法律等の合憲性は、厳格な基準によって判定されなければならないとする考え方である。 第一は、いわば個人主義的意義ともいうべきもので、「個人の自已実現」にとって不可欠であるという点である。 すなわち、精神的・知的な存在である人間にとって、言いたいことを言うというのは、その本性ともいうべきことであり、また、自己の精神活動の所産を外部に表明し、あるいは人のそれをうけとることによって、人格的な発展を遂げることができるのである。したがって、表現の抑圧は、人間性そのものに対する抑圧にほかならず、すでに古く1644年に、ミルトンが著名な『アレオパヂティカ』の中で述べたように、「自由で知的な精神に対して加えられる最も不愉快で侮辱的なもの」といわなければならない。表現の自由は、このように、なによりもまず、個人の人格的尊厳そのものにかかわる人権としての意義づけを与えられることになる。 第二に、表現の自由は、社会的効用という点からも、その重要性が基礎づけられる。ひとの考えることのうちには、当然、誤りもありうるが、それは、他人の考えに接することによって是正されうるものである。そのようなところから、各人が自己の意見を自由に表明しあうことによって、それぞれ「真理」を発見することができるのであり、また、その結果として、社会全体としても、正しい結論に到達することができるとする議論がたてられることとなるのである。この点もまた、すでにミルトンが「真理と虚偽とを組打ちさせよ。自由な公開の勝負で真理が負けたためしを誰が知るか」(『アレオパヂティカ』)と述べたところであるが、こうした考えは、後に、アメリカの連邦最高裁ホームズ裁判官の「思想の自由市場論」として展開され、アメリカにおける「優越的地位」の理論の発展に、大きな影響を与えたものである。ホームズは、「真理の最良の判定基準は、市場における競争のなかで、みずからを容認させる力をその思想が持っているかどうかである」と述べ、そのために、表現の自由がきわめて重要であることを力説したのである。 第三は、民主主義政治のプロセスにおける基礎づけである。国民主権原理にたつ政治的民主主義にとって、主権者である国民が自由に意見を表明しあい討論することによって、政策決定に参加することが、その本質的要素であることは、言うまでもない。表現の自由は、民主主義政治にとって不可欠な、自由な討論を保障するものとして、とりわけその重要性が強調されるのである。 同時に、政治権力の側にとっては、それは、自らの正当化の源泉としての意味を持つこととなる。民主主義の政治権力は、国民の意思に基づいて構成され運用されるという前提のもとに正当な権力として成立しうるものだからである。さらには、表現の自由は、権力に対する反対が、暴力や革命にまで発展しないようにする「安全弁」の機能を果たし、権力の安定に資するという側面をも持ちうる。その意味で、表現の自由は、権力にとっても、一定の程度では、なくてはならないものである。しかしまた、逆に、権力批判を許すこの自由が、権力にとって危険な側面を持つことも確かであり、それは、権力によって最も傷つけられやすい自由でもある。表現の自由の「優越的地位」は、この点からも帰結することができるのである。 8、自由権規約19条が示す表現の自由の権利性 市民的及び政治的権利に関する国際規約(以下「自由権規約」という。1966年採択:1979年日本批准)第19条は、下記の「表現の自由」に関する規定がある。 第19条 1 すべての者は、干渉されることなく意見を持つ権利を有する。 2 すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。 3 2の権利の行使には、特別の義務及び責任を伴う。したがって、この権利の行使については、一定の制限を課することができる。ただし、その制限は、法律によって定められ、かつ、次の目的のために必要とされるものに限る。 上記の自由権規約第19条の規定は、国内法と同様に、法的拘束力を有する。なぜならば、憲法第98条2項により、「国内法の序列上、同条約は、憲法よりも下位にあるが、少なくとも国会の制定法よりも優位の法的効力を持つことについては学説上実務上も争いがない(「逐条解説」子どもの権利条約 喜多明人ら著 日本評論社 14頁)」からである。 しかも、その際、規約の解釈は、条約法条約31条により、国際的解釈によらねばならない。したがって、国際人権〈自由権〉規約委員会の一般的意見や見解、さらにはヨーロッパ人権裁判所の先例等の国際人権法の水準を参照することができる」と述べている(『国際人権規約と日本の司法・市民の権利 法廷に活かそう国際人権規約』日本弁護士連合会:1997年、64頁、こうち書房)。その国際人権〈自由権〉規約委員会の一般的意見10(19)(表現の自由 1983年7月29日採択)の2は、次のとおりである。 2,2項は、表現の自由についての権利の保護を要求するが、その権利は、「国境とのかかわりなく」、かつ、「口頭、手書き若しくは印刷、」芸術の形態又は自ら選択する他の方法など」、あらゆる方法で、「あらゆる種類の情報及び考えを伝える」自由のみでなく、それを「求め」そして「受ける」自由が含まれる。必ずしもすべての締結国が表現の自由のすげての側面に関する情報を提供してきたわけではない。・・・・・。(『国際人権規約と日本の司法・市民の権利 法廷に活かそう国際人権規約』(420頁) 以上のように、「『あらゆる種類の情報及び考えを伝える』自由のみでなく、それを『求め』そして『受ける』自由が含まれる」と委員会の見解を示し、「表現の自由」における「求め」そして「受ける」自由の権利性、つまり、「情報収集権」を認めている。 以上のことから、住民の「知る権利など」を保障する制度的の一つとして、「会議の公開原則」があり、「傍聴の自由」がある。 9,憲法は、直接民主制による「住民自治」を規定 (1)自治体行政と住民との直接的つながりを憲法は予定 兼子仁(東京都立大学名誉教授)は、行政と住民との直接的つながりを憲法上予定されていると次のように述べている。 自治体行政の一般的代表者である「地方公共団体の長・・・・は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。」(93条2項)と書いて、日本国憲法は、国について避けた大統領制を自治体にあっては必須とし「首長公選制」でなければならないとしているのである。その民主制度的意味あいを十分に理解すべきであろう。 なお、「法律の定めるその他の吏員」も住民公選制であるべきものとし(93条2項)、戦後当初に法定された教育委員公選制のように、いくつかの自治体役職員・行政委員会委員などが住民選挙制であることを求めているのであって、そこに、議会を通さない自治体行政と住民との直接的つながりが憲法上予定されていると解されるのである。 (兼子仁著『新 地方自治法』岩波新書 2004年版 48頁) 憲法は、民主的国家体制の基盤を培うため、その一環として、地方自治の本旨に基づく制度に憲法上の保障をあたえた。地方自治体の行う行政は、中央政府の干渉や統制の下で行われるのではなく、独立して行われるという「地方分権」の考えと、その自治体に住んでいる住民が主導する、あるいは主体となるという「地方自治の本旨」に基づき、住民の意思に基づいて地方自治体の運営を決める「住民自治」である。その方法は、国について避けた大統領制、つまり、住民の直接民主制度をその基本原理として採用している。 (2)地方自治法は、住民の直接民主制による自治体運営を明示 俵静夫(元内閣法制審議委員)は、「住民は、地方自治運営の主体たる地位をあたえられている」と、住民の地位について次のように述べている。 住民は、地方公共団体の人的構成要素をなすとともに、地方公共団体の活動の源泉として、地方自治運営の主体たる地位をあたえられているところに、重要な意義がある。すなわち、住民の地位の法的意義は、地方公共団体の構成員として、団体の支配をうけるとともに、団体の組織運営に参加する権利を有する点にある。 (俵静夫著『地方自治法』法律学全集 有斐閣 1965年版 93頁) 兼子は、「地方自治」の特色として、直接民主制にあると次のように述べている。 国政においては議会制間接民主主義が基本なのに対して、地方自治・自治体行政にあってはそれと並んで直接民主主義も基本となっているところが、「住民自治」の特色なのである。(兼子仁著『地方自治法』岩波新書、1984年度版 32頁) 地方自治法は、つぎにみるような住民の直接参政権を「直接請求」のしくみとして定めているわけだが、それが憲法92条「地方自治の本旨」にふくまれた直接民主制であることは、ひろく認められている。それに加えて、憲法93条2項が明記している自治体の長の住民直接公選制も、代表民主制であると同時に直接民主主義の原理にそうしくみであることが、指摘されてよいと筆者は思う。(同上、33頁) また、憲法が示す地方自治の本旨に基づき、地方自治法は、次のように、住民が直接地方自治体に参加する住民自治の原則の徹底をはかっていると、俵は、述べている。 住民は選挙を通して地方行政に参与するだけでなく、直接請求や住民投票により、直接地方行政に参加するものとして、住民自治の原則の徹底をはかった。 (『地方自治法』、同、23頁) 先の兼子は、地方自治における住民の直接民主制について具体的な事例として、(1)「直接請求」のしくみと動向、(2)住民投票のしくみづくり、(3)「住民訴訟」が問いかけるもの、(4)民間人住民が入る行政委員会、(5)住民参加の審議会、(6)「公の施設」の管理への住民参加、(7)住民公選の自治体の長、(8)住民に開かれた自治体の議会、の8項目を挙げている(『地方自治法』同、35頁〜128頁)。 (3)今治市は「まちづくり条例」で市民と行政の一体を宣言 今治市は、「今治市市民が共におこすまちづくり条例」(条例第177号)で次のように、同条例の趣旨と目的を定め、市民と行政が一体となった「魅力ある21世紀の人間都市・今治」を築きあげることを宣言している。ここに、自治体と住民の関係が端的に示されている。 市民活動は、本来、自主的、自立的に行われるものですが、一方で、市民活動団体と行政がお互いの長所を認め、適切な協力関係を築き、協働した活動を進めることが求められています。 私たちは、市民と行政が一体となって、「魅力ある生活とそれにより培われた文化が新しい産業を興し、また、豊かな市民生活を創る、21世紀の人間都市・今治」を築きあげるために、この条例を制定します。 第1条 この条例は、市民活動の推進に関する基本原則を定め、市及び市民活動団体の責務を明らかにするとともに、協働してまちづくりを進めることができる環境を整備し、もって、市民が共におこす魅力ある地域社会の実現に寄与することを目的とする。 以上のように、住民に最も身近な行政の地方自治体は、住民が主体として運営される「住民自治」を基本理念としている。ゆえに、住民は、地方自治体の人的構成要素をなすとともに、地方自治体の活動の源泉として、地方自治体運営の主体たる地位をあたえられている。住民の地位の法的意義は、地方自治体の構成員であり、自治体の組織運営に参加する権利を有していることにある。しかも、国の運営とは異なり、地方自治体の運営は、直接民主制を採用している。 10,地方教育行政(教育委員会)会議を傍聴する住民の権利 教育委員会は、地方自治体から独立性を有する行政委員会の教育行政執行機関として設置される。地方教育行政の組織及び運営は、住民自治という基本理念に基づき行われる必要がある。その地方教育行政の組織及び運営に関する重要事項は、教育委員会会議で審議され、議決される。したがって、住民は、その会議を傍聴する権利を有し、教育委員会は、合理的理由なく、傍聴を制限したり、拒否することは許されず、これに反すると地教行法第14条7項の会議の公開原則規定に反し、かつ、憲法21条に基づく「表現の自由」、「知る権利」に反する。 |
|
裁判の経過と資料 | |
訴状:提出→今治簡易裁判所 2015.8.25 | |
松山地方裁判所(今治支部)へ移送決定 2015.9.1 |
|
松山地方裁判所(今治支部) 照会書:「本件を松山地方裁判所(本庁)へ回付を検討」 2015.9.24 |
|
原告意見書 本件を松山地方裁判所(本庁)へ回付しないことの求め 2015.9.27 |
|
松山地方裁判所(今治支部)で審理を行うとの決定 2015.10.5 |
|
第一回口頭弁論に対する申立書 2015.11.10 民訴法147条の3にもとづく審理計画の協議の申立書 同上 |
|
被告答弁書 2015.11.17 | |
準備書面(1) 民訴法147条の3第2項に基づく原告の審理計画2015.11.20 |
|
証拠申出書2015.12.16 | |
第1回口頭弁論 約1時間 2015.11.24 原告:訴訟・訴訟の補正書 証拠甲1〜7 被告:答弁書 証拠乙1〜7 |
|
準備書面(2) 会議の公開原則と傍聴の自由、傍聴の自由の具体的権利性 本件傍聴受付拒否の違憲・違法性 2016.1.8 |
|
準備書面(3) 本件傍聴受付手続拒否は、教育行政に対する監視行為の妨害・侵害 2016.1.8 |
|
準備書面(4) 住民自治における教育行政の住民の地位の法的意義とその実態、 教育委員会会議の傍聴は、教育行政への住民自治の基礎をなす 2016.1.12 |
|
被告準備書面(1) 2016.1.12 | |
準備書面(5) 被告答弁書の「第3 被告の主張」(1〜3)への反論(1)及び求釈明 ― 被告の主張に事実の基礎を欠く事実誤認、理由不備・齟齬があること ― 2016.1.13 |
|
準備書面(6) 答弁書への反論2 本件傍聴受付拒否は、違憲・違法であり、原告に損害を与える 2016.1.14 |
|
準備書面(7) 求釈明 同上 | |
第2回口頭弁論 約1時間 2016.1.26 原告:準備書面(2)〜(6) 被告:準備書面(1) 証拠乙8〜10 |
|
被告準備書面(2) 2016.2.29 | |
原告意見陳述書 2016.3.10 | |
第3回口頭弁論 約90分 原告:意見陳述書 証拠8〜11 被告:準備書面(2) 証拠11〜15 2016.3.22 |
|
第4回口頭弁論 約90分 本人尋問−本人調書 2016.4.26 |
|
最終準備書面 2016.6.6 | |
第5回口頭弁論 約90分 原告:最終準備書面 被告:被告最終準備書面 2016.6.21 |
|
判決文 主文 1,被告は、原告に対し、1万円及びこれに対する平成27年8月25日から支払い済みまで年5分の割合による金員を支払え。 2、原告のその余の請求を棄却する。 3,訴訟費用は、これを3分し、その1を被告の負担とし、その余を原告の負担とする。 判決の理由の抜粋
判決内容を報じた新聞記事(2016.8.3) 2016.8.2 |
|
今治市 控訴 控訴状 控訴理由書 2016.8.10 |
|
控訴理由書に対する答弁書 附帯控訴状 附帯控訴とは: 敗訴した側が控訴した時、勝訴した側も、その控訴に附帯して、判決を不服とする附帯控訴できる(民事訴訟法293条)。 したがって、今治市が、控訴したので、附帯控訴した。 その理由は、本件傍聴受付手続拒否を違法と判示したが、その理由を、住民が、行政に対して、会議を傍聴することを請求する権利性を有するという意味のおける「傍聴の自由」ではなく、最高裁判決を踏襲し、「情報等に接し、これを摂取する自由は、憲法21条1項の趣旨、目的から、いねばその派生原理」とした。また、違法理由には、「傍聴の自由」を主権原理との関係で述べていない。つまり、「傍聴の自由」の現実は、許可制に止まっており、様々な制限が存在し、本来的あるげき権利としての「傍聴の自由」になっていない。このような理由から、附帯控訴し、下記の附帯控訴理由書(2)で、上記の点を主張している。 附帯控訴理由書(1) 附帯控訴理由書(2) 2016.11.2 |
|
裁判資料にもどる | |